世の中には説明のつかない出来事がある。
私の手袋もそうだ。
なぜだろう。
毎年片方の手袋を通勤中に落とす。
そして、すぐ引き返すのだがもう見当たらない。
おかげで毎年手袋を買う羽目になる。
片方のみの手袋が増えていく。
一体落とした手袋はどこへ行ったのか。
.....怖い。
怪奇文学の巨匠エドガー・アラン・ポーの原作を、ヨーロッパの名監督3人が映像化したオムニバス・ホラー。女伯爵のゆがんだ愛が引き起こす悲劇を描くロジェ・ヴァディム監督作「黒馬の哭く館」、自らの分身と対面した男が皮肉な運命をたどるルイ・マル監督作「影を殺した男」、青年俳優が少女の幻影に誘われるフェデリコ・フェリーニ監督作「悪魔の首飾り」の3作から成る。ブリジット・バルドーをはじめ、豪華スターの競演も見どころ。
エドガー・アラン・ポーの怪奇幻想小説を映像化したオムニバス。
一本の映画で3つのストーリーを楽しめるのはおいしい。
しかもそれぞれ長すぎないのでみやすい。
ジョーン・フォンダの美しさにただただ圧倒される「黒馬の哭く館」。
アラン・ドロンの狂気が突き刺さる「影を殺した男」。
フェリーニの滑走する悪魔に追われる男を見事に描いた「悪魔の首飾り」。
どれも現代では考えられない美しさと恐ろしさでできている。
やはり、フェリーニ唯一のホラー「悪魔の首飾り」は評判通り傑作であった。
「黒馬の哭く館」
華麗すぎる衣装と美しすぎるジェーン・フォンダ。
どこかファンタジーのようなリアリティのなさが不思議な雰囲気。
出来事に日付や時間はないらしい。
贅沢に傲慢はつきもの。
欲にまみれれば、欲に食われる。
非常にシンプルで特別なことはない。
それなのに、奇妙に見えてしまうのはこの映画のスタイルが一貫して異常に見えるくらいビジュアルにこだわりが感じられるからだろう。
故に長く感じてしまったストーリー展開は惜しい。
私が男だったら馬に乗るジェーンで時間を稼げたのかもしれない。
「影を殺した男」
アラン・ドロンには、狂気が似合う。
似合いすぎる。
整った顔立ちから見えるただならぬ怖さ。
こんなドッベルは珍しい。
普通は悪人である自分に殺される。
が、これはその逆をいく。
自分が非道な行為をすると、善人である自分が表れる。
それ以上は踏み外さないように抑えるかのようだ。
まるで罰するかのような態度で唐突に現れる。
残酷で非人道的な行為を好む鬼畜男。
怖いものなしの男が唯一怖れるもう一人の自分。
悪魔のような男が陥った影。
男の中の善と悪が葛藤する。
自分が知らない間に起こっている分裂。
逃げても逃げてもきりがない。
自分を認めるという行為がどれだけで難しいことなのか思い知らされる。
「悪魔の首飾り」
フェリーニのホラーは、色気がある。
直接的な描写は全くないのに、どこか色気を漂わす恐怖がある。
フェラーリを乗り回しひたすら滑走するシーンは、自暴自棄になり出口が分からなくなった哀れな男の人生そのもの。
悪魔を象徴しているかのような少女から、逃げることはできないと悟った時の表情が怖ろしくてしかたない。
人生にはいつだって落とし穴が用意されている。
一つでも間違うと命取りになる。
どうして人は、そんな危険を冒してまで地位や名声にすがるのだろう。
あの少女の笑みはすべてを見透かしていた。
あれは、誘惑じゃない。
顛末だ。
見終わった後もずっとあの微笑みがこびりついて離れない。
三つの物語は共通している。
人間が欲求に勝てない愚かさを描いているのだ。
欲を満たしたその先にもっともっと何かが得られると信じ、泥沼にはまっていく。
一見、どの物語も非現実的にみえるかもしれない。
でも、誇張しているだけでこんなことはどこにでも転がっている。
だから怖い。
遠くにあるであろうものが、急に自分の目の前にきたとき....
自分でもきっと、もがくことしかできないだろう。
悪魔はすぐそばにいる。
目に見えないだけでいつだって見張っているのだ。
それを決して忘れてはいけない。
ちぶ~的タモさん度5
全然ウキウキしないで怪奇物語をウォッチング。グラサンのように太陽の光を遮るような闇が見える。