人の縁は分からないものだ。
いつどこで始まり、終わるのか。
その縁がかけがえのないものなのか、そうでないのかさえ分からない。
見えない糸はどこへ繋がっているのか。
それは、確信できるものでもない。
自分にとっては大切な縁でも、相手にとってはそうではないときもある。
人の心は誰にも見えない。
自分の心ですら明確でないから。
情で温める縁。
その温度は十人十色。
他人のすべてを理解しようなんて神の領域。
あきらめることって意外に大切な心得。
と、人間関係でもめると毎度思う。
あぁ、やりきれない。
「愛、アムール」と同じ、どうすることもできないんだ。
あらすじは.....
パリ在住の80代の夫婦、ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)。共に音楽教師で、娘はミュージシャンとして活躍と、充実した日々を送っていた。ある日、教え子が開くコンサートに出向いた2人だが、そこでアンヌが病で倒れてしまう。病院に緊急搬送され、かろうじて死だけは免れたものの、半身まひという重い後遺症が残ってしまう。家に帰りたいというアンヌの強い願いから、自宅で彼女の介護を始めるジョルジュ。しかし、少しずつアンヌの症状は悪化していき、ついに死を選びたいと考えるようになり……。
「ファニーゲーム」を見たときの衝撃は今も忘れない。
ただただ不条理。
なんで見てしまったのだろうと1か月は悩んだ忌まわしい余韻を残す。(ホラー耐性薄めだったこともあり)
そんな圧倒的恐怖を与えるミヒャエル・ハネケ。
それが.....
なぜだろう。
これは愛の物語。
老夫婦の行く末。
静かな名演。
世間では傑作。
だが、どうだろう。
私は、これはミヒャエル自身の恐怖にすぎない気がする。
甘い。
甘ったるい。
ミヒャエルの凶器がゆるい。
「ファニーゲーム」がアイスピックなら、「愛、アムール」は箸だ。
痛いし、刺さるかもしれないけど致命傷には至らない。
想像できる範囲。
それは、ミヒャエル自身も老いへの恐怖に怯えているからだろう。
介護の勉強をしていた私にとっては、これはあまりにも普通すぎるのだ。
劇場の観客はほとんど涙を流していた。
私の涙は一滴も流れない。
知っているからだ。
現実はもっともっと残酷であるということを。
そして、ミヒャエルも知らないはずがない。
もしくは、見て見ぬふりをしたいのかもしれない。
逃げたいからだろうか。
鬼才だからこそ、その武器を手にして欲しかった。
たとえ、吐き気がするほど悲惨でも。
だって、ミヒャエルなのだから。
"鬼才"から角をとったらただの”才”になってしまうではないか。
老いは受け身だ。
冒頭のコンサートのシーン。
観客しか映らない。
演奏者は見えない。
演奏を止められるのは、弾く側。
流しっぱなしになった蛇口の水。
閉めなければ流れ続ける。
老いは、それすらできなくなる選択のない恐怖。
静かに浸っていく。
静かに忍び寄ってくる。
絶対に逃げることができない。
心に残る名優による名演で愛の物語は進む。
深まる静かな愛と恐怖。
終わりに向かって歩いていることだけはハッキリと分かる老後の現実。
このラストを、悲観的に捉える人がほとんどかもしれない。
私は思う。
老いは、愛には勝てないと。
愛という選択。
愛は永遠だから。
そう、信じたい。
ちぶ~的トラウマ度4
なんだかんだで、しばらくは老人夫婦を見たらブルーにはなる。愛には、覚悟。老いにも覚悟。この映画より、老いは愛を引き裂くほどに残酷で無残で悲惨なんですから。